戦後ニッポンのロック・ポップス史の実況中継

無惨なる敗戦……そしてとにかく戦後がやってきた【戦後ニッポンのロック・ポップス史の実況中継】

 1945年(昭和20年)が始まってから7ヶ月半。硫黄島の戦い、東京大空襲、沖縄戦、原爆投下、ソ連参戦……たった半年強の間にこれだけのことが起き、とうとう戦争を続けることができなくなった日本は8月15日、連合国からの無条件降伏の勧告を受け入れ、敗戦の日を迎えた。それからわずか2ヶ月たらずの10月11日、映画『そよかぜ』は公開された。終戦直後の代表的な流行歌として知られる「リンゴの唄」は、この映画の主題歌として作られたものである。

スターが勢揃いしたにぎやかな『そよかぜ』

 『そよかぜ』はもともと戦争末期、連日の空襲に怯える人々を励ますためにと立てられた企画がベースになったそうだ。つまり、「毎日大変だけど、臣民みんなで戦争中の生活をがんばっていきましょうね!」というメッセージを伝えるための戦意高揚映画であった。これはまず前提として念頭に入れておきたい。その企画が敗戦後即座に、終戦後の生活に苦しむ人々の心を癒やすために、と目的の一部を置き換える形で再び動き出し、撮影、編集、そして公開とあいなった。現在『そよかぜ』は「終戦後にGHQの検閲を通った第1号映画ということで「戦後初の公開映画」と紹介されることが多いが、実際に検閲を通過したかどうかについては諸説あり、実際に当時の上映記録を見ると『そよかぜ』よりも早く公開されている映画もあるので、「終戦後初めてヒットした映画」としておくのがいいだろう。また、現在のように「全国一斉ロードショー」などという景気の良い映画興行ができるようになったのは1970年代になってから。『そよかぜ』を10月11日の公開初日に観ることができたのは都市部などの限られた地域の人だけであって、このあたりも注意が必要である。地方の映画館であれば数カ月後、つまり年が明けてから観た人も多かったと思われる。

 それはともかくとして、『そよかぜ』は1時間という短い時間のなかで歌あり涙ありと盛りだくさんな内容の作品である。松竹歌劇団の娘役スターとして戦前・戦中に活躍していた並木路子(なみき・みちこ)を主演に据え、上原謙(うえはら・けん/加山雄三の父)、佐野周二(さの・しゅうじ/関口宏の父)、斉藤達雄(さいとう・たつお)、三浦光子(みうら・みつこ)らのスターが脇を固めた。さらに二葉あき子(ふたば・あきこ)、霧島昇(きりしま・のぼる)らの流行歌手も出演しており、終戦後の再出発を飾るにふさわしい、にぎやかな顔ぶれの映画となっている。

主題歌「リンゴの唄」も大ヒット

 主題歌「リンゴの唄」の作詞はサトウハチロー(「ちいさい秋みつけた」「悲しくてやりきれない」)、作曲は万城目正(まんじょうめ・ただし/「悲しき口笛」「東京キッド」「別れのタンゴ」)。撮影から公開までの時間があまりに短かったため、作曲とレコーディングが間に合わず、主題歌は編集時にようやく加えられたそうだ。監督は早撮りの名手である佐々木康(ささき・やすし)。戦前は流行歌を主題歌に据えたいわゆる「歌謡映画」を得意とし、戦後はその手腕を活かして美空ひばり(みそら・ひばり)主演の時代劇映画を多く撮った人である。脚本は岩澤庸徳(いわさわ・つねのり)で、戦争末期に企画されていた前述のプロットを改作したもの。余談ながら、のちにブレッド&バターを結成する岩沢幸矢(ゆきや)、二弓(ふゆみ)兄弟の父でもある。

 「リンゴの唄」を収録したレコードは映画の公開から3ヶ月後の1946年1月に発売された。発売元の日本コロムビア(1946年4月までは、戦中、敵性言語の自主規制のなかで改称された「日蓄工業」という名称のままだった)は、運良く戦災を免れた川崎のレコードプレス工場の操業を1945年の10月に再開したばかりであり、結果的に映画がヒットして曲が人々の間に浸透してから、満を持してのリリースとなった。「リンゴの唄」はレコードの発売前からラジオで頻繁に歌われ、1945年の大晦日には『紅白歌合戦』の前身となったNHKラジオの『紅白音楽試合』で並木が出演して歌っており、これもこの歌が国民に浸透するきっかけとなった出来事だろう。然してレコードは大ヒットを記録し、「終戦後初めてヒットした曲」として不動の地位を築いた。フルコーラスで紹介されることが少ないのであまり知られていないが、2番は映画で共演した霧島昇が歌い、3番は並木、そして4番は霧島と並木のデュエットとなっている。リンゴに良く似たかわいい女の子との恋愛をさわやかに唄った歌詞はそれまでの過酷な時局を一切感じさせることがない。これこそ大衆が待ち望んでした曲であったに違いない。そもそもこのような歌を喜んで聞くなど、戦時中であればたちまち隣組に「非国民!」と罵られ、最悪の場合、憲兵に連行されてしまう行為である。「リンゴの唄」は、敗戦によって極度の緊張状態から解放された終戦時の雰囲気を克明に伝える楽曲でもあったのだ。今も当時を回想する映像には必ずと言っていいほどこの曲も一緒に紹介されているその一方で、曲自体は戦時中の勇ましい曲調が残っていることにも留意しておきたい。戦争が終わったというのはあくまでも表面的な気分でしかなく、無意識的にはまだまだ戦時中の名残りがあった。これもまた、今日を通して今もって感じられる生々しさである。

実際に『そよかぜ』を現在の目で観てみると・・・

 では、映画『そよかぜ』の出来はどうだったかのか?というと、個人的な感情で言うとこれが非常に微妙……だと思っている。劇場の照明係だった若い女性が歌手に抜擢されるという「スター誕生」的なシンデレラ・ストーリーで、戦前に大ヒットしたハリウッド映画『オーケストラの少女』『テムプルちゃんのえくぼ』のことが念頭にあったかもしれない。主題歌同様に男女の恋愛ものびのびと描かれる。華やかなレビュー場面が見どころで、観客が敗戦直後の重たい気分を忘れるにはもってこいの明るい映画だ。男性俳優たちは坊主頭からそのまま伸びた髪型になっている以外は、ほとんど戦争の影を感じないように作られているのも当時の観客には魅力的に写ったことだろう。

 そして、主人公の女の子を取り巻く楽団の男たちはみなジャズメン。いまの目で見ると、この人たちは戦時中どこでなにしてたんだろう? などと余計なことを考えてしまう。初めから戦争など初めからなかったかのようなこの映画の世界観は逆に不気味というか、それだけ日本人が受けた傷が深かったとも言えるのだが、その結果として生まれたのが『そよかぜ』におけるごきげんなアメリカ志向だ。結局のところ、スタッフもキャストも観客も、日本人はもともとアメリカの文化が大好きだったとしか思えないのである。もちろん占領軍による検閲への対策として、アメリカに好意的な映画を作って審査を通りやすくしようという意図もあっただろう。しかしそれにしたってこのフットワークの軽さにはガッカリさせられる。戦争が終わるやいなや、なんという変わり身の早さ。戦争に負けた瞬間、アメリカ大好き人間にコロッと変わってしまったことも考えられる。どちらにせよ、だったらなぜ戦争なんてバカなことをやったのだという怒りが湧いてくる。あなた方がもっとしっかり反対していればあそこまでの悲劇はなかったかもしれないのに、と。あとの時代の人間からすると、本作には大衆の現実逃避としての側面が大きく感じられ、そしてそれは現在の人々と文化の関係とも直結する厳しい問題なわけである。単純な映像資料的な価値で言えば、まだTVのない時代に霧島昇が歌っている場面が見られるのは貴重ではある。

並木路子を見た1995年の思い出

 戦後50年の節目ということで、メディアでもなにかと戦争や戦後を振り返る企画が多かった1995年。並木路子が日曜の朝のニュース番組『サンデーモーニング』に生出演し、「リンゴの唄」をフルコーラスで歌ったのを観たことがある。50年前(今からすると77年前)とまったく変わらぬ歌声で歌うその姿に衝撃を受けた。50年間鍛錬し続けてあの声を維持していたのだろう。

 配信で聴ける「リンゴの唄」の歌唱は2バージョンある。生誕100年を迎えた2021年リリースされた『想い出のアルバム 〜リンゴの唄〜』は、1941年=昭和16年、戦争が勃発したその年にリリースされた「世界隣組」と「リンゴの唄」以外は、すべて1970年代以降に再録音されたステレオ・バージョンで構成されている。一方『スター☆デラックス』のほうは「リンゴの唄」のステレオ再録音版以外は初リリース時のSPレコード(78回転盤)からの復刻音源となっており、同じ曲を聴き比べてみれば最晩年まで変わることのなかった歌唱力の一端をうかがうことができる。「リンゴの唄」の大ヒットもあって、戦後は流行歌手として大活躍をした彼女の楽曲は「東京ルンバ」「ペンギン鳥の夢」、CMソングのパイオニア・三木鶏郎とのデュエット「ホープさん」(同名映画……のちの「社長シリーズ」につながる東宝サラリーマン映画の初期作の主題歌)など新しいリズムを用いた興味深い楽曲もあるが、基本的には彼女の模範的な歌唱法も含め、戦前からのサウンドをそのまま引き継いだものと考えていい。

 録音の歴史について話をすると、終戦の時点ではまだレコード盤に直接音を刻み込む方式であり、それは昭和天皇がラジオ放送を通して国民に終戦を伝えたいわゆる「玉音放送」ですらそうだった。したがってその音源をデジタル化する際も、録音原盤が運よく残っていたとしても78回転のSP盤から起こすしかなく、ガサガサというトレース・ノイズが入っているのはそのためである。それがテープへ一旦録音してからその音をレコードに改めて刻み込む方式になるのはもう少し後の話で、戦時中のドイツで開発された技術がナチス崩壊後にアメリカに持ち込まれ、1948年になってから広く実用化。日本では1950年代の初めに導入され、メディアも徐々に78回転のSPから、45回転/7インチのビニール盤へと移行していく(日本コロムビアが最後のSPレコードを生産したのが1962年)。レコードに音を刻む前段階のテープが現存していれば、そこからクリアな音で復刻できるようになるというわけだ。

 音楽的には、1952年まで敗戦後の日本を占領し、その後も安全保障条約に基づく駐留などで強い影響力を持っていくアメリカからもたらされた文化が日本のポピュラー音楽を劇的に変化させていく。具体的に言えばカントリーと、そこから派生したロカビリー、そしてロックンロールである。その一方で戦前以来のジャズやシャンソンも変わらず好まれているところに日本の伝統的な民謡や小唄なども混ざり合い、戦後の日本が勢い良く活気を取り戻していくのと同時に、音楽も発展と革命を続けていくのであった。

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