ビートルズソロアルバム解説サブスクで聴ける名盤ガイド

Plastic Ono Band『Live Peace In Toronto 1969』(1969)【解説】

プラスティック・オノ・バンド『平和の祈りをこめて』
バーシティー・スタジアムに於ける初の実況盤
~『ライヴ・ピース・イン・トロント1969』

リリース: 1969年12月12日(日本:1970年2月5日)
レーベル:アップル/EMI(日本:アップル/東芝音楽工業)

Side A
1 Blue Suede Shoes
(ブルー・スウェード・シューズ)
2 Money (That’s What I Want) (マネー)
3 Dizzy, Miss Lizzy(ディジー・ミス・リジー)
4 Yer Blues(ヤー・ブルース)
5 Cold Turkey(冷たい七面鳥) 

6 Give Peace a Chance(平和を我等に)

Side B
7 Don’t Worry Kyoko
(Mummy’s Only Looking for Her Hand in the Snow)  
(ドント・ウォーリー・キョーコ
 [京子ちゃん心配しないで])
8 John, John(Let’s Hope for Peace)
 (ジョン・ジョン [平和の願いを] )

 プラスティック・オノ・バンドのライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて(Live Peace In Toronto 1969)は1969年の年末にリリースされた。アルバム『レット・イット・ビー』は発売されておらず、まだ辛うじてビートルズは存続中。ビートルズとしては事実上のラスト・アルバムになった『アビイ・ロード』がリリースされる2週間ほど前で、ポール・マッカートニーによるビートルズ脱退声明が公になる約5ヶ月前にあたる1969年の9月13日、ジョン・レノンがオノ・ヨーコらとともにカナダのトロントにあるヴァーシティ・スタジアムのステージに立った「トロント・ロックンロール・リバイバル」での様子を収めた作品である。

 その年の5月から「プラスティック・オノ・バンド(POB)」という名義で活動するようになっていたジョンとヨーコは、モントリオールでの平和運動「Bed Peace」の最中に作曲・収録した「Give Peace A Chance(平和を我等に)」をシングルとしてリリースし、活動を本格化させた。アップル・コアの発足から1年。会社の社長として多くのスタッフを抱えて大所帯となっていたビートルズは「バンドであること」自体が大きな縛りとなり、早くも身動きが取りづらくなっていた。そのフラストレーションをどうにか払いのけたかったジョンにとって、”その場にジョンとヨーコがいさえすれば、いかなる形態であろうとPOBである”、という従来のバンド感覚から解き放たれたスタイルは、まさに彼の理想を体現するものであった。ちなみに「平和を我等に」はギリギリまだビートルズとしての活動と並行していた時期だったため、作曲のクレジットは「レノン=マッカートニー」となっていた(現在はジョンひとりのクレジットに修正されている)。

1969年6月、カナダ・モントリオールのクイーン・エリザベス・ホテル1738号室と1742号室で大勢のゲストを招いて録音されたシングル「平和を我等に」
その6日前、バハマのシェラトン・オシアナス・ホテルで収録したリハーサル映像

 POBが出演した「トロント・ロックンロール・リバイバル」というフェスはそのタイトルの通り、当時再評価が始まっていたオールディーズ、ロックンロールのスターを集めたイベントである。チャック・ベリーリトル・リチャードら、ビートルズ結成前のジョンに多大な影響を与えたオリジネーターたちは、60年代の後半にはキャリアの曲がり角を迎え、いわゆる”懐かしの歌手”としてステージに立つ機会が多くなっていた。そこになぜジョンが前日に連絡を受け、翌日のステージに立つことになってしまったのか。その経緯が非常に面白い。主催者のジョン・ブラウアーは当時弱冠22歳。チケットの売り上げが良くなかったので、演奏はしてくれなくとも、とにかく誰か有名人に来てもらおうとオファーをしたうちのなかにジョンがいたという。あまりにも無謀な悪あがきだ。特にコネがあるわけでもないのにアップルに電話をすることになり、たまたまそこにいたジョンにつながった。そしてジョンは出席するだけでなく、演奏もしたいと自ら申し出た。ジョンの回想によると、ビートルズとは違うバンドで活動してみたかったジョンが、イベントの概要以外はロクに相手の話も聞かずに出演のオファーと勘違いしてしまい、「演奏させてくれないなら行きたくないな。とにかくすぐにバンドの編成をする」と返事をしてしまったのだという。ウソのような本当の話である。

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 そして今度はジョンが友人たちに電話をかけまくり、エリック・クラプトンクラウス・フォアマンアラン・ホワイトが召集された。当時無名のスタジオ・ミュージシャンだったアランは、たまたまロンドンのクラブ「ラスプーチン」で演奏していたところをジョンとヨーコが見ていたことがきっかけで、その翌日に決定したトロント行きのメンバーに大抜擢された。「君のドラムを聴いて気に入ったんだけど、友人たちと一緒に《ちょっとしたギグ》をやらないか? トロントで。明日なんだけど」とジョンから急すぎる電話があったその翌朝、彼の家の前には黒いリムジンが停まっており、そのままジョンとヨーコが待つヒースロー空港へ向かったのだという。これもまたウソのような本当の話。ジョージにも声をかけたが断られたらしく、代わりにクラプトンに連絡するようジョンに薦めた、という説もある。かくして、初のバンド編成によるプラスティック・オノ・バンドが始動。メンバーはトロントへ向かう飛行機のなかでリハーサルをした。トロントに到着する前後にもジョンはひと悶着ふた悶着、イベントの開催が危ぶまれるほどの凄まじいエピソードを残しているが、そのあたりは日本でも公開されたドキュメンタリー映画『Revival69: The Concert That Rocked the World』(邦題は『リバイバル69 ~伝説のロックフェス~』)で詳細に明かされることとなった。

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 現在ではPOBがこのフェスのヘッドライナーであると紹介されることが多いが、実際には最後の最後に出演が決まったのでむしろ飛び入り参加と言ったほうが正しく、実際のヘッドライナーはドアーズである。したがって、告知のポスターにも当然POBの名前は入っていない。とはいえ、ジョン・レノンがトロントにやってくる!というアナウンスによってチケットは無事完売。現地のファンたちは本当にジョンが現われるのか、半信半疑だったことだろう。ヘロイン中毒を振りきった反動と、久しぶりのステージを控えた極度の緊張のため、軽率に出演を決めたことを後悔しながら楽屋で嘔吐を繰り返していたというジョンは、焦点の定まらぬ危険な目つきのままギターを手にすると、別人のように堂々たるパフォーマンスを披露した。

 カール・パーキンスのカヴァー「ブルー・スウェード・シューズ」を歌うと、続けてバレット・ストロングの「マネー」とラリー・ウィリアムズの「ディジー・ミス・リジー」。カヴァーだがジョンにとっては重要な楽曲だ。それぞれ『ウィズ・ザ・ビートルズ』『ヘルプ!』のアルバムの最後を飾った曲で、実質的にビートルズ・ナンバーを歌ったようなもの。「ヤー・ブルース」は前年にローリング・ストーンズのTV用作品『ロックンロール・サーカス』(当時は未発表)でも演奏しており、この時点では『ホワイト・アルバム』のリリースから1年も経っていない「ビートルズの新曲」だった。「冷たい七面鳥」はこの時点ではスタジオ・レコーディングもされていない正真正銘の新曲。「平和を我等に」もエレクトリックな編成で演奏されたのはこれが初めて。シングル盤では手拍子だった部分がアラン・ホワイトが規則正しく叩くドラムのビートに置き換えられた。

『ロックンロール・サーカス』での「ヤー・ブルース」。このときもエリック・クラプトンと一緒だった。
ジョンが目の前で「マネー」を歌ってくれる光景を想像してごらん。

 そしてアナログ盤ではB面にあたるステージの後半はヨーコがメイン。シンプルなギターリフが延々と繰り返される「京子ちゃん心配しないで」と、ギターのフィードバック・ノイズとヨーコの歌声が10分以上にわたって展開する「ジョン・ジョン (平和の願いを)」を披露した。「ジョン・ジョン (平和の願いを)」はヨーコの歌う歌詞に合わせたタイトルになっているが、ジョンは「《ケンブリッジ 1969》でやったようなことだね。《トロント 1984》みたいなことさ」と発言しており、この半年前にケンブリッジ大学でのコンサート「ナチュラル・ミュージック」(出演はヨーコのソロ名義)で披露した前衛作品「ケンブリッジ 1969」『「未完成」作品第2番~ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』に収録)の再演をしたという認識のようだ。ジョンはアンプにギターを立てかけたまま、大音量のノイズのなかでステージを降り、観客は司会者のアナウンスによってようやく演奏が終わったことを知った。1995年の初CD化の際にリミックスされた際、エンディングはフェイドアウトで終わる編集に変更になったが、レコードでは司会者のアナウンスの途中でぶった切るように終了。その衝撃度は明らかにオリジナル・ミックスが勝っている。CDではオリジナル版にあった多くのノイズが削除されてかなりクリアなサウンドになった分だけ本来の荒々しさが控えめになっているので、興味のある人は一度レコードで聴いてみることをお勧めする。

 ジョンはこのステージをきっかけにしてビートルズからの脱退を決意したと言われているが、これはライヴ活動の再開を目指したものの極めて限定的な成果(ルーフトップ・パフォーマンス)に終わった「ゲット・バック・セッション」の雪辱を、お気に入りのメンバーを招集してトロントで果たすことができたから、という見方ができる。ともあれ、ここでの収穫はジョンの期待以上のものだったのだろう。終演後、同じく出演者として現場にいたジーン・ヴィンセント(ジョンの愛唱歌「ビー・バッブ・ア・ルーラ」でおなじみのロックンローラー)がかつてドイツのハンブルグで共演したことを思い出し、感激してジョンに駆け寄ったという感動的なエピソードも残されている。ステージの様子はD・A・ペネベイカー(ボブ・ディラン『ドント・ルック・バック』、『モンタレー・ポップ』など)によって撮影されており、のちにボー・ディドリー、ジェリー・リー・ルイス、チャック・ベリー、リトル・リチャードのステージと合わせて映像作品『スウィート・トロント』(1971)として発表された。そこではステージの序盤からヨーコが白い袋に入っておこなう“BAGISM(バギズム)”のパフォーマンスをする様子を観ることができる。映像の音声ではヨーコの声が大きめにミックスされ、多くの部分でコーラス(?)を入れていることがわかるのでこちらも要チェック。

1969年1月30日の「ルーフトップ・パフォーマンス」。当時は未発表。翌年、映画とアルバムの『レット・イット・ビー』で部分的に発表された。
カヴァー・アルバム『ロックンロール』(1975)の1曲目「ビー・バッブ・ア・ルーラ」

 イギリスに帰ったジョンは2週間後、スタジオで「冷たい七面鳥」を、翌週に「京子ちゃん心配しないで」を録音し、翌月のうちにシングル化。年末にトロントでのライヴ録音をアルバム『平和の祈りをこめて』としてリリースし、年が明けて1970年1月末には「インスタント・カーマ」を録音、わずか10日後にリリースするまで相変わらずのフットワークの軽さで突き進んでいる。この後ジョンがアメリカに移住するまでに発表したアルバム『ジョンの魂』『イマジン』までは、リズム・セクションはこのトロントでのバンドが基本となり、その時によってアランの代わりにリンゴやジム・ケルトナーが、クラプトンの代わりにジョージが、という具合に編成されている。

 ちなみに、日本では『平和の祈りをこめて』とされている「Live Peace in Toronto」というタイトルは、これは5月にのちにジョージの『オール・シングス・マスト・パス』に「アイ・リメンバー・ジープ」として収録されるジャム・セッションのミキシングに参加した際のタイトル「Jam Peace」、アムステルダム、モントリオールでの「Bed Peace」に続く、POBの「PEACE」シリーズの一環として位置づけられている。この歴史的なロックンロール・セッションも、ジョンとヨーコによる壮大な平和活動の一環だったというわけだ。

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